痛みへの感受性

宮永ののかは痛みへの感受性が強い。 例えば、配信でのネガティヴよりな反応へのリアクションをしてみたり、寝ていそうにない藤をお手当しようとしたり、病んでいる千石を散々監視していたりと、人が辛いと感じていそうな時に反応せずにはいられない。

人が苦しんでいたら助ける事自体は立派なものだが、英雄でもなければ端から対応する事はできない。 その結果として現れる行動が適切かは兎も角、宮永はそれに近い事をしているように取れる。

一方で、本人は眠れないくらい悩んでいるのに「大丈夫」と反射している。 他人については散々お手当しようとしているのに対照的である。 これは自分の痛みを自分自身で受け止めきれないと見てはどうだろうか。

痛みに耐えられない

他人の痛みを感じやすいからといって必ずしも介入する必要はない。 それこそ超回復の話を仲町達はしていた。 下手に介入した所で逆効果の場合もある事を作中ではわざわざ描写している。 その上で有効でない「お手当」の描写を行った。

これは意図的だろう。 宮永にはどうしても「お手当」しなければならない理由があったのだ。 それは痛みへの耐性がないからではないだろうか。 他人の痛みを感じやすいのも、痛みに耐えられないからこそ僅かな差も感じてしまうとすれば説明がつく。

効果のない「お手当」を行ってしまうのも痛みへの耐性が低いからだ。 既に痛いから冷静でいられないのだ。 痛みに共感できるなら「お手当」が逆効果ならそれも感じられそうだが、「お手当」の最中は既に冷静ではないからその共感性が適切に働かないのだ。

痛みに弱いからこそ、自分の痛みは無視して、他人の痛みを「お手当」して解消しようとする。 これが宮永のお手当の本質ではないだろうか。

自分自身のお手当

宮永は他人の「お手当」ばかりして自分の「お手当」はできていない。 だから単純に不眠の朝から千石のSNSを見るシーンから始まるのだ。 眠れないけど眠ろうとするシーンすらない。 頑張って寝ようとするという自らへの「お手当」ができないからだ。

更に言えば自分の痛みを受け入れてお手当を受ける準備もできていないように見える。 宮永はみゅーたいぷにおいて唯一の家族が出てくるキャラクタだ。 仲町や千石も家族がいるという話はしたものの、姿も声もわからない。 しかし、宮永には妹が少なくとも声としては出てきている。

これを意図的とするなら、これまで家族との関係の中でも宮永は面倒を見る立場だったからこそと見てもいいのではないだろうか。 それが直接的な原因ではないにせよ、今の宮永の他人の「お手当」を優先していく傾向につながっている可能性はある。 そうした中で、意図的に自分の痛みをその場で受け止めなくなっていったのではないだろうか。

ぎたーグミ

さて、そうなると宮永を誰かが「お手当」する必要があるだろう。 そこで合わせると言っている峰月が実は一番近いのではないか。 別に峰月が直接「お手当」をする必要はない。 宮永自身の痛みを受け止めればいいのだ。 そうすれば、峰月の受け止めた痛みを更に宮永が感じられる。 痛みははんぶんこになるかは別として、共有はできる。

自分の中に秘めた痛みだからこそ、一旦外に出す必要がある。 それを峰月ならば担えるのではないだろうか。 自分が楽だと思う世界に浸かっていたと気づけたからこそできる役割である。

ただ、それが会話などで行われるかと言えば疑問ではある。 峰月はギターとして合わせるという話をしたのだ。 つまり、具象的には峰月が弾いて宮永が歌うといったシーンが作られるのではないだろうか。 あるいは私がそれを見たいだけかもしれない。