これまでのあらすじ

感性としては下記の続きである。 今回は13話までの総括と特に何故あのような終盤だったのか、及び今後への期待について触れていきたいと思う。


始まりの物語

最終回になってもAve Mujicaは舞台だった。 それこそがAve Mujicaの物語だ。 物語でしかないとも言える。 MyGO!!!!! が今この瞬間を叫ぶバンドなら、Ave Mujicaは物語の中でしか叫べないバンドである。 Ave Mujicaは今そこにいない。 MyGO!!!!! は叫ばずにいられない世界にいるが、Ave Mujicaの世界はそのままでは叫べない。 物語を通してだけ、それまでの自分とは切り離された世界でだけ、叫ぶ事ができる。

だから忘却の女神が現れた。 忘れればよいのだ。 恐れを、愛を、死を。 神ならば忘れさせる事ができる。 騎士としてAve Mujicaに加わる事は福音だ。

ドロリスはそうできなかった。 忘れたい者ではなかったからだ。 会うべきでなかった祥子にまた会いたかった。 祥子を忘れる事こそが悲しみだ。 しかし、初音のままでは忘れるしかない。 だから、初音ではいなくなった。 初華という物語を始めたのだ。


初音の為の仮面

Ave Mujicaのメンバーは自分が自分でしかない事に自覚的だ。 だからこそ仮面を付ける事に意味があり、外した影響もある。 祥子から渡された仮面を、Ave Mujicaになる為につける。

しかしそれは初華の為の仮面であった。 初音の為のものではなかった。 初音はずっと自分で作った仮面の上から、初華用の仮面をしていたのだ。

だから祥子はなかった事にした。 しがらみの全てをなかった事にした。 勿論、なかった事になんてならない。 そんな事は祥子もわかっている。 豊川家の話なんて芝居を打ったに過ぎない。 故にこれは祥子から初華に向けた脚本だ。 初華の仮面としてAve Mujicaを作り直したのだ。


Ave Mujicaの神

冒頭の神の話に戻ろう。 言うまでもなく最終回での舞台劇はこれまでのAve Mujicaをなぞったものである。 祥子も自らを元にした神を演じている。

では忘却の神とは何だったのだろうか。 忘却を忘却したいのだろうか。 忘却こそが恐れなのだろうか。 どちらでもない。 忘却は結果である。

人形達は与えられる忘却を望んでいる。 ただ、実態としては輪廻を繰り返し、彷徨っているだけである。 しかしそれを黄昏の楽園と呼ぶ。 それこそステージである。 キャストにもゲストにもないものを見せているのだ。 箱庭だろうと創世に等しい。 忘却も、なかった事にするも、その一形態に過ぎない。

だからこそ、天球ののMúsicaでは時間の話をするのだ。 光も闇も作るものなのだ。 人は時間を使ってでしか空間を把握できない。 故に時間という切り口から世界を見せる。 だからこそ忘却というシンボルが用いられた。 忘れてしまいたい現と、時間を支配し得る力と、本当の権能を隠す仮面、その3つを忘却で示していたのだ。


幕引き

舞台が現実を映し出すように、現実も舞台で見通される。 オブリビオニスが機械仕掛けの神ならばもう舞台は終盤だ。 だからこそ黄昏の楽園と呼んだのだ。 終幕が見えているのだ。

終わらない曲はない。 終わらない舞台もない。 終わりがあって初めて完成するのだ。 故にAve Mujicaも終わらなければならない。

勿論、これは私の願望だ。 しかし、私はAve Mujicaの終わりが見たいのだ。 蝋燭のように、花火のように、最後の一瞬で燃え盛る炎が見たい。 Ave Mujicaの終わりという光を目に焼き付けたいのだ。