見えて見えて見えすぎた。 見えすぎて何を見たか覚えていないくらいだが、見えた事は覚えている。 だから何回か見直してから見た感想を書くと思う。 今回はどのような見方をしたから見えまくったのかを書いていく。
結論としては、自宅で集中して見られる人以外は映画館に行った方がよいという事になる。
“見える"の指すもの
しばしば私は"見える"“見えた"といった表現をしばしばする。 これは明示されていないものが見えた時に使っている。 実態としては暗喩だったり妄想だったりするのだろうが、実感としてはその後の展開が瞬間的に見えてしまうので"見えた"という言い方をしている。 多分、先の展開がわかるという事は未来の時間を見ているわけで、時間はそのまま距離になるので遠くが"見えた"という感覚になるのだろう。
例えば音楽を聞いて刺激を受けて何かを発想するなんて話は多く耳にする。 私の見えたもその1つなのだと思うが、私の場合は一枚絵のような絵本のような形になる。 絵を描かないから細かい所ははっきりしないが、写真だったり絵だったりして、そこに文字が書いてあったりする。
超かぐや姫! の場合、複数のリリックビデオをごちゃ混ぜにしたような見え方だったと思う。 色んな物が見えすぎて気持ち悪いくらいだった。 好きにならなければ、感想が見えすぎて酔ったになっていそうだ。 特に宇宙と時間のようなものが沢山見えた。 それらが次から次へと出てきてスパークルしていった。
見える目を養う
元々妄想に耽りやすい傾向があったのかもしれないが、見える感覚になったのは舞台に通い詰めるようになってからだと思う。 例えば、ファンタジー要素のある舞台だと魔法はしばしば出てくるが、物理法則に反するものは基本的に実現し得ない。 演出であるように見せているだけだ。 しかし、私は演出によって魔法が見えている。
一般には演出だとわかった上で、まるで魔法のようだと見るものだろう。 しかし、私は魔法だと見えてしまうのだ。 実態として暗示や妄想だと自分でも理解はしているのだが、見ている最中はそんな私は存在しない。 魔法がある世界の方が現実になるのだ。
この感覚になるには2つの方法があると思う。 1つ目は事前に知識を入れていくというものだ。 コンテンツ消費においては事前情報の取得は何故か忌避されているが、事前に知っていた方がその世界に入れ込むには都合がいい。 それこそかぐや姫なんて誰でも知っている物語だし、SNSをやっていれば楽曲のPVが目に入ってしまう事もあるだろう。 それらを一旦受け入れた上で、忘れるくらい入り込めばいいのだ。 取っ掛かりは必要だろう。
もう1つは見る以外ができない状態に追い込む事だ。 舞台でこういう感覚を得るようになったのも劇場は見るしかできないからが強いからだと考えている。 特に注意力散漫だといいと思う。 私はそうなのだが、注意力散漫なのに座席に固定されると見て終わりという事ができない。 見るしかできないなら目にしたもの以上のものを見ようとしてしまうのだ。 その結果、見えるようになったのだと思う。
超かぐや姫! を見るだけの存在になる
最初にも書いたが、映画館で見た方が見えたとはなると思う。 先述したが、結局は妄想に過ぎないので、他の事ができない環境で見た方がいい。 どこにいても電話がかかってきてしまう人以外は行動を意図的に制限する場所で見るべきだろう。 もちろん、自宅のシアタールームで家族に鍵をかけてもらうといった事が可能ならそれでもいいかもしれない。 いずれにせよ、見ながら他の事をできない環境にすべきだろう。
映画館はもう1ついい所がある。 一般に自宅よりも聞ける音の範囲が広くて大きい事だ。 音から感じるものが多い人はより見えるようになると思う。 今回、見えすぎてしまった理由の大きな1つにもなっている。 そもそもEDMみたいな傾向なんだから音は大きい方がいい。
また、事前情報を極端に回避しなくてもいい。 自然とそうなるならいいが、そうでなければ事前に見てしまった場面だと元の自分に戻ってしまいかねない。 実質的に全ての情報の回避は不可能なのだから、そこをあまり意識すべきではない。 やるにしても、積極的に人の感想を見に行ったり楽曲を聴き込まないようにするくらいのものではないか。 かぐや姫が竹から生まれた事を知らずに超かぐや姫! を見る日本人なんてほぼいないのだから気に病む必要はない。
心構えのような話をすると、あまり構えなくていいと思う。 非常に評判がよく、一方で批判もあったりするが、結局は見るのは自分でしかない。 私はとても評判にとらわれやすいからこそ、その場に私がいない世界で見えるようになった。 あまり構えず、気にせず、見ればいいと思う。 見えたものを否定するのも肯定するのも現実の自分でしかない。 超かぐや姫! を見るだけの存在になれば見えるようになる。